手を離さないで。 そう言われたとき、本当に泣きたくなった。 ■ つないだ手を ■ 真っ白な部屋の中にぽつんと置いてあるひとつのベッド。室内にはベッドと椅子以外の物は置いてはいない。 ベッドの横に寄り添うように置いてある椅子に座るのは緋色の髪を持ったブックマンJr、ラビ。ラビは何もするわけでもなく、ベッドで眠る白髪の少年・アレンを看ていた。 さびしく感じるほど何もないこの部屋の住人であるアレンは深い眠りについていた。しかしその息は荒く、その音以外何の音もしない室内は耳についた。この呼吸が正常の時は、生きているのかと不安になるほど微動だにしない事を考えると、今の状況はアレンが生きていると確認しなくても解ると言えるのだが。いつもは真っ白な肌が怪我による発熱で赤く染まっているのを見ると居たたまれなくなる。 何も出来ない事が歯がゆくて、無意識のうちにアレンの白髪を撫でれば少し表情が和らいだ気がした。 ―このままずっとここに居れば、いいのに。 一瞬、そう思ってしまったラビは、思わず頭を抱えた。 アレンは守られる事を望まないのだ。己を犠牲にしてでも前に進もうとする。その肩を何度掴んで止めようと思った事か。進んで行く背中を腕の中に閉じ込めてしまおうかと思った事か。実際閉じ込めてもアレンはするりと腕を抜けて行き、任務へと行ってしまうのだが。 任務へ行くと時折高熱を出すほどの怪我をして帰ってくることがある。今回もそうだ。民間人の子供を庇って全身に大小の怪我をして帰ってきた。 そんなアレンを見るたびに、心が痛かった。 だから、自身を犠牲にする傾向を止めようとそばに居ても、アレンは変わってはくれなかった。アレンがラビの願いを聞き届けないのは、否。聞き届けられないのには理由がある。アレンとアレンに寄生するイノセンスと結んだ『理』。 アレンが願い、イノセンスが願うコト。 左は悪魔の為に。 右は人間の為に。 全てを救済する。 それが彼らの戦士としての『理』。それは曲げる事も、変える事さえ出来ない鎖。運命にがんじがらめになったアレンは、神が与えた運命を自分の意思と決意によって受け入れ、生きている。それが、エクソシスト・アレン・ウォーカーなのだ。 ラビが介入する事は不可能。 アレンの為になりたいと願うのは、ブックマンとしていけないことだとわかっては居るのに。 心はアレンを欲してやまない。 己の隣で安心するように微笑むアレンが、愛おしい。 表情を思い出して、心が軋むのを感じたが気付かぬふりをして、ラビは瞳を閉じた。 それから数時間後、いつのまにか落ちていた意識が急に浮上する。 時間感覚がつかめず窓を見れば、蒼かった空は茜色に染まっていた。 単純に考えてもあれから4時間は経過している。 そして今の状態を思い出して、ベッドの上で眠るアレンを見た。数時間前と変わらず苦しげに眠っていた。 任務がない日とはいえ、怪我人の前で意識を飛ばすなんて。己から進んで引き受けた看病を一時的にも放り投げたように感じて、思わず項垂れる。 アレンに何も起きなかった事に多少の安堵をおぼえた時。 「ラビ…ラビ…」 消えそうな声で名を呼ばれる。 寝ていた筈のアレンの声音であると理解した途端、驚いて勢いよく顔を上げれば虚ろな灰銀がラビを見つめていた。 青い唇は微かに震え、荒い息が漏れている。 通常ならば「体調は」など聞く事が沢山あるはずなのに、ラビはいつもと違う色を灯したような灰銀に囚われたように、身動きが取れなくなった。 苦しげに顔を歪めるアレンは意識が朦朧としているらしく、うわ言のように言葉を紡ぐ。 「おね、がい…おねがい……だから」 力なくベッドに落ちていた白い腕がゆっくりと持ち上がり、白い指が手に触れた。そこから伝わった体温の高さに、咄嗟にアレンの手を握れば、アレンは虚ろな灰銀に薄く涙を溜めた。眼尻から溢れるようにこぼれ落ちた雫は、なめらかな頬を伝いアレンの髪の中へ落ちて行く。 何がアレンを泣かせているのか、ラビには見当がつかなかった。だから、握る手に力を込めれば、アレンもそれに答えるように少しだけ力が込められる。 しかしアレンのから洩れる言葉は、ラビの予想を超えるものであった。 「君がここから居なくなるその日まででいいから…おねがい…」 「アレ…ンっ」 そこまで言葉を置いたアレンは、一区切りを置くように口を閉ざした。 灰銀から目をそらす事が出来ないラビは、翡翠色の瞳を限界にまで見開いていた。唇が震え、乾いて行くのが分かる。 必然と訪れた沈黙はラビに考える時間を与えた。悲しい現実を、未来を想う時間を。 ― 君がここから居なくなるその日まででいいから ― 残酷なまでに優しい、アレンの言葉。 ラビがいつの日にかいなくなることを前提に、ラビと共に居た事を間接的にとはいえ、アレンは言葉にした。本人は無意識であろうとも、いつまでも共に居られない現実をラビにつきつけた。 切望する願いは、永久的に叶わないと。 そう考えてしまった時、喉元が熱くなるのを感じた。己にはどうする事も出来ない、自身の「ブックマン」としての宿命を、己を、初めて呪った。 ギュッとアレンを視界から追い出すように瞼を閉じた。 このままずっとアレンを見ていたら、離れる時にアレンを殺してでも共に居ようと願いそうであったから。 喉の奥が引きつりそうになるのを必死に耐えた。このまま、アレンが寝入ってしまうように、願いながら。 しかし現実はそんなに優しくはない。 ラビが今を拒絶してから数分もたたない内に、吐息にも近くなった声がラビの耳に届く。 「おねがい…だから」 耳を塞ぎたい衝動に駆られたが、それよりも先にアレンの想いは言葉となり、音となった。 「その日まで、手を離さないで」 その言葉だけ、嫌に確りと耳に届いた。 「っ!アレン!!」 一瞬息が詰まったが、声がかすれる事も気にせずに愛しい名を叫ぶように呼んだ。 瞼を上げれば、先ほどまで見えていた灰銀は薄い瞼の下に隠れていた。握った白い手も力なく、手の中にある。 意識を失ったらしいアレンの頭を、ラビは無言のまま優しく抱き締めた。 青唇に、触れるだけのキスを送った時。 ぽたり。 アレンの青白い頬に、雫が落ちた。 その雫が涙だと、己が泣いているのだと気付くのには、かなりの時間を要した。一度こぼれ落ちた涙は止まる事を知らずに、青白い頬に落ち、アレンの涙の痕に沿って落ちて行った。 今度はひくつく喉さえ止める事が出来なくて、アレンが寝ている事を言い事に、何年かぶりに泣いた。 この想いが、痛くて、悲しくて。 腕の中のアレンが愛おしくて。 何もかも捨てて、アレンの腕を取りたいのに、取れない事を嘆きながら。 終りの日よくるな、と願いながら。 終焉までのカウントダウンがなり鳴り響く世界を。 優しくない神の世界を。 共に、生きて行く。 どんな結末が待とうとも。 END...... 08.11.15 冰魔 悟 |