世界がかすむ。

 何もしていないのに体中が痛い。

 喉が痛い。

 でも、体調が悪い、という自覚はなかったらしい。
 エクソシスト最年少、アレン・ウォーカーの様子がおかしいと初めに気づいたのは、以外にもアレンと仲の悪い神田であった。



■□ 風邪と砕けた笑み □■



「おい、リナリー」

 聞き覚えのある声に呼ばれ、リナリーは手に持っていた書類を器用に抱え直しながら振り向けば、そこには思った通りの人物、漆黒のエクソシスト神田ユウがいた。任務以外で神田から話しかけてくることは滅多になく、何かあったのかと首をかしげた。

「どうしたの、神田?」
「モヤシが…」
「え?」

 神田の口からアレンの名が出てくるとは思わなかったリナリーは、思わず間抜けな声を上げた。
 その反応に神田の眉間にしわが刻まれる。だがリナリーの反応は当然ともいえるものであった。なんせアレンと神田の中の悪さは折り紙つきだったからだ。その事に関して神田もアレンも異論はないのだからこの、こんな反応が生まれるのだが。
 しかし今回は神田がリナリーを呼びとめてまで、アレンの名を出したのには何か理由があると、リナリーはふんだ。

「アレン君がどうしたの?」
 
 神田の機嫌はさて置き、問えば、少し言い辛そうに神田が口を開く。

「モヤシが…気持わるい」
「えっ!どういう事?」

 抽象的すぎる神田の答えにリナリーは思わず、聞き返した。神田に「気持ち悪い」と言わせるほどの出来事とは。
 すると神田が苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、事の始まりを語り始めた。

 ことの始まりは、いつもと変わらない筈であった朝食から始まったらしい。
 神田が食堂に入り、いつものように注文を済ませて席を探した時、偶然にもアレンの居る席しか空きがなく、渋々大量の料理が半分以上を占領するテーブルに蕎麦を置いた。  いつもならばこの時点で満面の黒い微笑みでアレンが挨拶をしてきて、言い合いの前兆ともなれる会話が始まる筈であった。神田自身もそれを予想して、少しだけ神経をアレンに向けていたが、数分経ってもアレンが何も言ってくる気配はなかった。始めは完全に無視されたのかと思ったが、ちらり、と流し目で見たアレンを見てその予想が外れている事を知る。アレンはぼうっとしたまま、いつもをはるかに下回るテンポで食事を口に運んでいた。しかし料理は味わっているらしく、時折、幸せそうに眼を細めていた。しかし食事のスピードと言い、神田が近距離に居るのに気づかない事と言い、何処か不自然さを感じた神田は、珍しくも行動に出る。ガタン、と音を立てて、席を立ったのだ。それも机を揺らすように少し大袈裟に立ち上がれば、流石のアレンも顔を上げた。そしてアレンは神田以上に珍しい事をしでかす。神田を視界に収めると、ふにゃりと笑ったのであった。その瞬間、神田だけではなく、先ほどの物音でこちらを向いていた探索部隊、科学班の人間は思わず動きを止めた。あの神田と犬猿の仲とも言える程仲が良くないと思われるアレンが、笑ったのだ。それもいつもとは違う、誰も見た事がないと言えそうなほど、無邪気な子供のような笑み。
 固まる神田達に気づかないアレンは、ひたすらにこにこ笑うばかり。なんとなくいつもと様子の違うアレンに神田が、内心戸惑った瞬間。

「神田ぁ、おはようございます」

 甘ったるい声音で名を呼ばれた神田は逃げるように食堂を後にしたのであった。
 
 そんな神田の話を聞いたリナリーは思わず苦笑する。神田が気持ち悪いといった理由などを理解できたからだ。たぶん、リナリーがその場に居ても固まっていたと思う。
 ある意味被害者のような神田に同情を覚えつつも、リナリーの頭はアレンに移っていた。
 初めに浮かんだのは、リナリーの兄であり、黒の教団室長のコムイ。コムイならば変な薬でアレンをおかしくすることは可能であろう。しかし、リナリーは昨日一日中コムイと居た。その間アレンが報告書を持って来た以外に接触点はない。コムイの線は薄いと考えていい、とリナリーは結論を出したはいいが、反対にヒントを失ってしまった。
 神田も何かしら考えているらしく、何も言わずに瞳を閉じていた。
 リナリーが書類の重みを感じ始める程時間がたった時、2人が佇んでいた廊下の先からドタドタと走る音が聞こえてきて、リナリーと神田は同時に視線をそちらに向けた。そして暗闇から現れたのは見慣れた同僚。橙の髪からバンダナが首元落ちているのさえ気にならないほど急いでいるらしく、リナリー達を視界に入れると同時に、手を振った。

「あ!リナリーユーウー!!ちょーっち大変さぁ!手伝って!!」

 リナリー達の前で急停止した橙色の髪を持つラビはゼーハ―と肩で息をする。そしてラビが背に何かをおぶっている事に気づく。そしてラビが背のモノのバランスを取るように動いた瞬間、見えた白い色にリナリーが声を上げる。

「あ、アレン君!?」

 そう、ラビが背負っていたのは、先ほどから会話に出ていたアレンであった。それも意識がないらしく、ぐったりとラビに背負われていた。

「ラビ!アレン君、どうしたの!?」
 
 思いもしないアレンの姿にリナリーがあわて始める。そのまま駆け寄ろうとしたリナリーをけん制するように動いたのは、神田であった。神田はリナリーの肩を掴んで動きを止めると、ずいっとアレンのそばに寄った。そして怪訝気に覗き込む。

「風邪か?」

 いつもは真っ白な頬がほんのりと赤く染まっていて、吐き出される息は荒く熱い。思い当った病名を口に出せば、ラビが首を縦に振った。













 今朝の可笑しさの原因が風邪のせいだと判明した後、神田を巻き込んでアレンを看病する事となった。
 看病と言っても、ただ部屋でアレンが起きるのを待つだけなのだが。看病に巻き込まれた神田が文句を言わない筈はなかった。
 病人がいる事を忘れて、出て行こうとする神田を止めながら、騒いでいると。

「うん…」

 小さなアレンの声が響いた。
 無理に起こしてしまったのかと思った3人の動きが同時に止まる。
 ゆっくりと後ろを見れば案の定、ぼんやりとアレンがこちらを見ていた。ぱちくり、と灰銀を瞬かせながら、辺りをぐるりと見渡し、再度リナリー達を視界に入れると同時に、今朝神田に向けたような、笑みを顔いっぱいに浮かべたのであった。その笑みにアレンがまだ15歳の少年である事を思い出させた。
 そんなアレンを愛おしく思ったラビは神田の体を押さえていた手を離すとアレンのそばに行く。そして真っ白な髪を撫でてあげれば、アレンは嬉しそうに灰銀の細めたのを見て、まだ少年なのだと思い知る。いつもはあんなにも大人びているものだから、こういう一面を見ると、少し甘やかしてあげたくなるのは、頭の片隅でアレンの事を弟のように思っているからだろう。

「らび…」

 舌っ足らずな声音で名を呼ばれ、ラビは笑む。

「ラビが…2人居る…」

 おおよそ風邪からくる熱のせいで、視界が定まらないのであろう。
 アレンは何がおかしいのか、くすくすと笑っている。
 そんなアレンに逃げる気力を失った神田が近づく。すると漆黒を視界に入れたと思われるアレンが近くにきた神田の手をいきなり取った。その行動には神田のみならずリナリー達も驚いた。
 驚く神田達に気づかないアレンが、神田の手を頬にまで持って行くとすりすりと頬ずりし始めた時は本気で神田が凍りついた。少年特有の柔らかさの頬の感触とか、暖かい体温だとかに、あっけに取られ、すり寄るアレンをひきはがすタイミングを逃してしまった神田はされるがままになっていた。周りが思っているほど、アレンを嫌っていない神田の心境が、少し見え隠れする瞬間であった。
 一方、怒鳴るのではと危惧していたリナリー達は、神田がされるがままになっている事に少なからず驚くが、あえて触れない事とする。
 頬ずりしているアレンが幸せそうに笑みながら、えへへ、と声を上げた。

「かんだの手って、つめたっくて気持ちいい……」

 のんびりと発せられた言葉に、アレンがなぜ神田の手を取ったかを知る。
 一通り冷たさを堪能したアレンが神田の手を離すのをいいタイミングとして、リナリーがアレンを覗き込む。
 
「アレン君、風邪ひいているなら、早く言ってね」

 子供に言い聞かせるように、言えばアレンがきょとんとしてリナリーを見つめた。
 そして発せられた言葉に驚く。

「風邪…?ぼくかぜひいているんですか…?」
「えっ!?」
 自覚がないらしいアレンに一同が唖然とする。
 己に起きている症状と、風邪の症状を簡単に説明してあげると、アレンが苦笑する。

「ああ、じゃあ、ぼくかぜをひいているんですね。ぼくかぜなんて初めてだから、わかんなくて…」

 15年間生きてきて「風邪」に関しての事を今日初めて理解したであろうアレンよりも、「風邪」を引いた事がないという方が驚きであった。
 聞くところによると、風邪とおぼしき症状があっても、休んでいる暇などない幼少期、クロスと凄いた怒濤の毎日では"風邪"で寝込んでいる暇などなかったと推測できる。その事を考えるとアレンが"風邪"というものを理解していないのは仕方がないと言えよう。
 それでは仕方がないと、顔を見合わせたリナリー達を、アレンが不安げに見上げていた。
 リナリーはにっこりと笑うと、アレンのいつも以上に暖かい手を握った。

「アレン君。もしも、こんな症状が出た時は言ってね?」
「はい」

 迷惑をかけているという自覚があるらしいアレンは眉を少し下げて「はい」と返事をした。いつもは聴きやすい声音が、少しかすれていた。

 その後高熱にうなされたアレンが「食欲がなくなる」風邪を脅威と判断するのは、この数時間後の事であった。
 
 完全復活を果たしたアレンと、神田の関係が少しましになったというのはまた別のお話。



END.............


■□  コメント  □■

 花粉症で喉が痛くてなんとなく思いついた突発小説。
 ただアレンを心配するティーンズが書きたかっただけ(笑)

09.02.16 冰魔 悟